
※登場人物は全て仮名です。
早川美咲、35歳。夫と小学生の娘との3人暮らし。几帳面で計算高く、スーパーのポイント5倍デーは絶対に逃さない。そんな彼女が、ある日曜日の朝、スマホを見ながら硬直していた。
「ねえ、これ本当なの?」
リビングでコーヒーを飲んでいた夫の隆が顔を上げる。
「なに?」
「ふるさと納税で、旅行ができるって」
「え、今更?みんなやってるじゃん」
美咲の手が震えた。今更。その言葉が胸に刺さる。
SNSのタイムラインには、友人たちの投稿が並んでいた。「実質2000円で箱根の高級旅館に泊まってきた」「沖縄3泊、ふるさと納税で予約完了」「毎年これで家族旅行してる」。
美咲の脳裏に、過去の記憶が蘇る。
3年前、ママ友のLINEグループ。「ふるさと納税の旅行、どこがおすすめ?」というメッセージを、彼女は完全スルーしていた。その時の自分は、ふるさと納税といえば米や肉をもらうものだと思い込んでいた。
2年前、義母が「旅行券余ってるんだけど」と言ってくれた時も、「大丈夫です、普通に予約しますから」と断っていた。面倒くさそう、よく分からない、普通でいい。そう思っていた。
そして去年の夏。家族3人で軽井沢に行き、12万円使った。節約のため、夕食は近くのファミレスで済ませた。
「私、バカだった」
美咲は呟いた。
その日から、美咲の生活は一変した。
まず、ふるさと納税の仕組みを徹底的に調べた。寄付金額から2000円を引いた額が、翌年の税金から控除される。つまり5万円寄付すれば、実質負担は2000円で、48000円分の返礼品がもらえる。
「天才か」
美咲は思わず声に出した。
さらに調べると、一休.com、楽天トラベル、じゃらん、るるぶなど、普段使っている旅行サイトがほぼ全て対象だった。高級旅館も、リゾートホテルも、選び放題。
年収から計算した寄付上限額は約18万円。確定申告が面倒だと思っていたが、ワンストップ特例を使えば書類を送るだけ。
「なんで今まで知らなかったの。いや、知ってたのに無視してたの、私」
過去3年間の旅行費用を計算してみた。合計約40万円。もしふるさと納税を使っていたら、実質6000円で済んでいた計算になる。
「40万円...」
美咲は天井を仰いだ。新しい冷蔵庫が買えた。娘の習い事を増やせた。いや、もっと豪華な旅行に行けた。
その夜、美咲は夫に宣言した。
「今年の冬休み、ふるさと納税で北海道行く」
「おお、ついに目覚めたか」
「過去の私を呪いながら、未来に生きる」
それから美咲は、ふるさと納税のポータルサイトに入り浸るようになった。
朝、娘を学校に送り出した後、すぐにパソコンを開く。仕事の休憩時間もスマホでチェック。夕飯の支度中も、タブレットを見ながら宿を比較する。
「ねえ、この宿すごくない?展望風呂付き客室で、寄付額8万円。実質2000円で泊まれるんだよ?」
「うん、すごいね」
夫は生返事をしながらテレビを見ている。
「でもこっちの宿は、朝食が豪華で口コミ評価4.8。寄付額は7万円だから、コスパはこっちの方が...」
「どっちでもいいよ」
「どっちでもよくない!人生かかってるの!」
娘が心配そうに覗き込む。
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫よ。ママはね、今まで損してきた分を取り戻してるの」
美咲は12月31日までに寄付できる上限額を計算し、北海道の高級リゾートホテルに10万円、箱根の温泉旅館に8万円分を申し込んだ。
「これで来年は2回も旅行できる。実質4000円で」
彼女は満足げに微笑んだ。
しかしそこで、ふと気づく。
「待って。寄付上限18万円で、もう18万使っちゃった。ということは」
美咲の顔が青ざめる。
「米は?肉は?」
年が明けた。
美咲の元に、ワンストップ特例の書類が届く。彼女は几帳面に記入し、マイナンバーカードのコピーと一緒に返送した。
「これで来年の住民税が16万円安くなる。完璧」
しかし問題が発生した。
2月のある日、スーパーで米を買おうとした時、美咲はハッと気づいた。
「そうだ、去年は米をふるさと納税でもらってたんだ」
毎年、30キロの米を返礼品として頼んでいた。それを今年は旅行に全振りしてしまった。
「米、買わなきゃいけないじゃん」
計算すると、年間で米代が約4万円増える計算になる。
「実質2000円じゃなくて、実質42000円?」
美咲は混乱した。
さらに3月、義母から電話がかかってきた。
「美咲ちゃん、今年の夏も一緒に温泉行かない?私がふるさと納税で予約するから」
「あ、いえ、私も箱根の旅館予約したんです」
「あら、そう。じゃあ別々ね」
電話を切った後、美咲は気づいた。去年まで、義母のふるさと納税の旅行に便乗して、実質タダで温泉旅行を楽しんでいたのだ。
「あれ?私、損してる?」
夫が呆れた顔で言った。
「だから言っただろ。ちゃんと計算しろって」
「うるさい!人生はトータルで考えるものなの!」
5月の連休、美咲は家族で北海道のリゾートホテルに向かった。
飛行機代と食事代は自腹だが、宿泊費が実質2000円なのは事実だ。チェックインの時、フロントで「ふるさと納税の返礼品でのご宿泊ですね」と言われると、美咲は誇らしげに頷いた。
部屋は広く、窓からは雄大な自然が見える。夕食のバイキングは豪華で、娘は大はしゃぎしていた。
温泉に浸かりながら、美咲は考えた。
確かに米代は増えた。義母の旅行にも便乗できなくなった。トータルで見れば、そこまで得しているわけではないかもしれない。
でも、この景色。この体験。娘の笑顔。
「まあ、いっか」
美咲は湯船に身を沈めた。
翌朝、朝食会場で娘が言った。
「ママ、すっごく楽しい。また来たい」
「来年も来ようね。ふるさと納税で」
夫が苦笑する。
「もう計算はしたの?来年の寄付プラン」
「当然」
美咲はスマホを取り出し、すでにお気に入りに入れている宿のリストを見せた。
「来年は沖縄と京都。そして米10キロと、牛肉3キロ」
「バランス取れてきたね」
「学んだのよ。人生はバランスが大事だって」
チェックアウトの時、フロントのスタッフが笑顔で言った。
「またのお越しをお待ちしております」
「来年も来ます。ふるさと納税で」
美咲は胸を張って答えた。
帰りの飛行機の中、娘が隣の席で眠っている。夫もうたた寝している。
美咲は窓の外を眺めながら思った。
確かに過去の40万円は戻ってこない。でもこれから先、賢く、お得に、そして楽しく旅行ができる。それだけで十分だ。
スマホを開くと、ママ友LINEに新しいメッセージが届いていた。
「ふるさと納税の旅行、初めてやってみたいんだけど、どうすればいい?」
美咲は即座に返信した。
「任せて。今から完璧なプラン教えるから」
彼女の新しい使命が、今、始まった。
ふるさと納税の女王として。